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F-86Dは、アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発したジェット戦闘機F-86から派生した全天候要撃機。愛称は原型機と同じくセイバー(Sabre)であるが、その機首形状と形式のDをかけてセイバードッグとも呼ばれた。 == 概要 == 冷戦が始まると、アメリカでは脅威を増しつつあったソ連の爆撃機に対抗できる要撃機を短期間かつ大量に製造する必要に迫られた。これに応じる形で1948年5月に設計が開始された本機は、F-86をベースにしているものの、大幅な設計変更で外見から性能まで異なる機体であり、部品の共通率も25%に留まる。このため開発当初はYF-95Aという名称であったが、朝鮮戦争による財政悪化のため、F-86の派生型という名目で予算を確保し採用に至る。 大きな特徴は、全天候型レーダーと連動するE-4 FCSを備えたために飛び出して鼻のように見えるレドームである。設計当初はレーダー操作員を同乗させる複座機として計画されていたが、機体性能の低下に加えて燃料容量が減少してしまうことから中止となり、レーダー搭載ジェット戦闘機としては初の単座機となった。このため自動化された迎撃用FCSを新開発し搭載することとなり、これがE-4となった。 E-4は当時最先端の電子機器であったが、当初は開発遅延〔このため、37機製造された初期ロットのD-1型には簡素化したE-3が代わりに搭載されている。E-4を搭載したD-5型以降の配備が進むと、これらはTF-86Dと改称され訓練用となった。〕と品質管理上の問題が付きまとったほか、複雑な構造のため整備が難しいという難点があった。また操作も複雑で、自動化されたとはいえパイロットの負担が大きいことに変わりはなく、操縦もレーダー操作も一人で行わねばならず外を見る暇がほとんどなかった程で、飛行はほぼ常に計器飛行であり「手が3本必要」とパイロットを嘆かせた〔後に同様のFCSを搭載したF-89DやF-94Cは、複座機であるため操作面で大きな問題は起きなかった。〕。アメリカ空軍も、パイロットにはB-47を含むどんな機種と比べても多くの飛行訓練が必要であることを認めざるを得なかった。 機体面ではエンジンにアフターバーナーと自動燃料コントロールシステムが追加された他、全遊動式水平尾翼やドラッグシュートも装備している。これによってさらなる高速化を果たし、当時の全天候戦闘機の中では随一の性能を誇った〔重い電子機器を搭載したことで機動性はA型より低下していたが、元より要撃機は機動性よりも速力が重視されるため、要撃機としての性能は総じて向上したと言える。〕。胴体下部には唯一の兵装である「Mk4 FFAR マイティ・マウス」24連式空対空ロケット弾を装填する引き込み式ロケットパックが設置されている。マイティ・マウスは自機と高速で交差する爆撃機の撃墜を目的とし、機体のFCSが計算した唯一のタイミングに一斉発射される〔『月刊モデルアート』2003年12月号p30〕。空対空ミサイルが未発達だった当時は最も強力な空対空兵装であり、本機は機銃を廃止してロケット弾のみを主兵装とした最初の戦闘機となった。ただ、ロケットパック展開時は抵抗増大による機首下げモーメントが発生するため、自動的に水平尾翼が下げ位置になることで機首が上向きに補正されるようになっている。 1951年に初めてアメリカ空軍に配備され、1954年半ばには防空軍団所属の総機数1,045機の内1,026機を占めるに至った。また、これとは別に能力低下型F-86KがNATO諸国で使用された。より高性能の要撃機が登場してからは余剰機が他国へ広く輸出されたが、1970年代初頭までには概ね退役している。 なお、本機は速度記録を2回樹立している。まず1952年11月19日にアメリカ空軍のJ・スレイド・ナッシュ大尉が1,124.14km/hを達成した。翌年7月16日には同じくアメリカ空軍のウィリアム・F・バーンズ中佐が1,151.8km/hを達成し記録を更新した。いずれもカリフォルニア州のソルトン湖上空で記録されたもので、高温の環境と高気圧が記録達成に有利に働いたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「F-86D (航空機)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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